由緒

出雲大社東京分祠 昭和16年

出雲大社東京分祠 昭和16年(麻布区史)

出雲大社東京分祠は、出雲大社八十代宮司で出雲大社教の初代管長である千家尊福公が、東京及び東日本の御神徳宣布のため、明治11年1月11日、 千代田区神田にある神田神社社務所内に、東京出張所を設けたのに始まります。

神田神社は、出雲大社と御祭神が同じだけでなく、当時の宮司は平田学派の平田盛胤でその関係も深く、また初代の出張所長は本居宣長の学統を継ぐ本居豊頴で、祭神論の当時は東京における出雲派の拠点でもありました。

やがて、明治政府の宗教政策により神職による布教が禁じられたことで、明治15年5月尊福公は出雲大社教の特立をはかることになりますが、それに先立って東京出張所は明治15年4月4日麹町区上二番町に移転されました。明治16年5月4日には東京出張所に神殿を設立し、尊福公が親しく出雲より御分霊を奉じて鎮祭し、ここに出雲大社東京分祠が建立されたのです。

同年5月12日には有栖川宮幟仁親王の御臨席を仰いで落成式を行い、神殿には同宮の筆になる「経国治幽」の額が掲げられました。この時、明治天皇から大和錦二巻を御下賜せられたこと、及び尊福公自ら建立したことは分祠の歴史の深さを示すものに外なりません。明治22年、千家尊弘出張所長の時、麻布区材木町(港区六本木七丁目)に神殿は移転されました。

明治31年にはいち早く神前結婚式を執り行い、東京における神前結婚式の端緒を開きました。また当時は、神葬祭に関しても数多の元勲の国葬を奉仕しています。

出雲国造家の方々はその伝統によるものでありましょうか、学究肌で和歌などもよく詠まれるのですが、千家尊建出張所長は歌人としても知られ、「神道随想集」など哲学的に神道を考察した著書もあります。 それは、千家尊宣出張所長も同じで、幾冊の著書もあり、後には出雲大社教の管長職に就かれ、國學院大學の理事をも務められました。 この尊宣所長の玉串拝礼の解釈が広く認められ今では定説のようになっておりますが、その考察は神道教学に寄与するところ大でありました。 昭和20年5月25日、尊宣所長の時に、不幸にも戦災に遭い、御分霊は御動座申し上げることができましたが、有栖川宮より御下賜の「経国治幽」の額が失われたことはまことに残念なことでありました。 その後、しばらくは霞町一番地の仮事務所に移転しておりましたが、昭和36年12月31日、千家遂彦出張所長によって、現在地に木造の神殿が再建されました。 昭和55年12月4日には近隣の開発に伴い、鉄筋コンクリート造りの神殿に改築されて現在にいたっており、縁結びなどの諸祈願や神前結婚式を奉仕して、広く皆様のご希望に応じております。

縁結びの神様 出雲大社

ここ六本木の出雲大社東京分祠は出雲大社の御祭神大国主大神の御分霊を奉斎する都内唯一の分祠であり、 東部の要として、第八十代国造、出雲大社教初代管長の千家尊福公によって明治の初期に創設されました。

出雲大社の御祭神、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)は縁結びの神として、広く知られておりますが、 縁結びとは単に男女の縁を結ぶということだけではありません。私どもが立派に成長しますように、 社会が明るく楽しいものであるようにとお互いの幸福のためのすばらしい縁がむすばれるということなのです。

ダイコクさま、福の神として親しまれている大国主大神さまが、多くの方々から広く深い信仰を受けておられるのも この「むすび」という愛情を私どもに限りなくそそいでくださるからです。

当分祠では皆様方が、ダイコクさまの幸せのご縁をいただかれて、 明るく安らかに過ごすことが出来ますよう、日々お祈りいたしております。

出雲大社が勤仕せる主な葬祭

出雲大社東京分祠では、明治初年に建立されて以来多数、新しい時代を切り開き、動乱を乗り越えられた方々の国葬・国民葬をご奉仕してまいりました。

● 国葬

公爵 岩倉具視閣下
  斎主:初代管長 千家尊福公
公爵 三條実美閣下
  斎主:副管長本居豊頴
  有栖川宮熾仁親王殿下
  北白川宮能久親王殿下
公爵 毛利元徳閣下
  小松宮彰仁親王殿下
以上、斎主:二代管長千家尊愛
公爵 伊藤博文閣下
公爵 大山  巌閣下
公爵 松方正義閣下
以上、斎主:副管長千家尊弘

● 国民葬

伯爵 乃木希典閣下(靜子夫人)
侯爵 大隈重信閣下
斎主:副管長千家尊弘

● 参議院葬

  小松宮彰仁親王殿下
斎主:副管長千家尊弘

● 此外に

  明治天皇の章子内親王殿下
  明治天皇の靜子内親王殿下
以上、斎主:初代管長千家尊福
  神宮祭主の梨本宮守正王
斎主:総監千家尊宣
以上「大梁灰儿一家言(二)」より引用